Monday, June 3, 2013

アメリカの純文学

東野圭吾の「さいえんす?」の最後に、古本屋で本を買ったり図書館で読んだりしても、出版会社に利益はなく、その結果作家たちにお金が入らず、いずれは新しい本が出なくなる、という話があった。

うん、確かにそれはそうだ。本のジャンル関係なく、売り上げの儲けで本インダストリーは成り立っている。



アメリカで純文学と ポピュラー文学(?)の違いといえば、もちろん内容的なこともある。たとえば、サイエンス・フィクション、ロマンス、ミステリーは全部ポピュラーのジャンルとなる。純文学はそのようなポピュラー要素はなく、文学的に深い何かがないと「純文学」ではない。

まぁ、漠然と考えれば何が純文学で何がポピュラーかは簡単に分かる。ハリーポッターとグレートギャツビー、どっちがどっちだ、と言ったら分かりやすい。

だけど最近はもっと根本的でさらに客観的な見分け方がある。ポピュラーフィクションは本の売り上げのみを頼りに儲けている。じゃあ純文学はどうやって儲けているかって?

「純文学」を書くのは大学の教授などなのだ(?)。たとえば、教授が小説を書くことになると、大学から資金をもらって、本を書く。本が一冊も売れなくてもベストセラーになってもあまり関係ない。

だから、現代では教授が大学からもらったお金で本を書いている限り、小説に宇宙人とか出てきちゃっても「純文学」 のジャンルに入るわけだ。

そして、今からヤギが「ライ麦畑で捕まえて」並みの文学的価値のある小説を書いて出版しても、ヤギが教授でもなく、大学から資金ももらっていなければ「ポピュラーフィクション」になってしまう。

へんな話だよなぁ。

ヤギは英語の「ポピュラーフィクション」はあまり読んだことがない。ハリーポッターは小学生の時に頑張って一冊目を読んだが、あまり魅力を感じず二作目以降は読んでいない。子供の時に読んだ本といえば、大草原の小さな家シリーズだ。このシリーズは大好きだったが、そもそも「フィクション」じゃないからカウントしないとして、よく考えてみると「ハリーポッター」以外ポピュラーフィクションは読んでない。

最近、とある「純文学」と名乗る小説を読んだ。あるきっかけがあって読むことになったこの本は、数年前に書かれたものだった。ハリーポッター以外では過去20年、30年以内に書かれた本はそもそも読んでいないことに気がついた。最近の純文学はどんなものなんだろうと思いながら、その本を読み始めた。

そしてがっかりした。

いやぁ、本当に苦痛だった。「ラノベ」は読んだことないが、「ラノベ」はこれくらい読みやすいんだろうなと思わせるくらいの読みやすさだった。内容も軽かった。厳密にいうと、小説の中で起きる出来事そのものはとても重いが、それに対するキャラクターたちのリアクションが軽すぎた。親友が死んでも高校生の女の子が妊娠しても、たいした反応がなかった。みんな次々と非現実的な行動をとるし、だんだん登場人物たちの運命がどうなろうと、ヤギはどうでもよくなってきた。

一番「ぷつん」ときたのが、ワンパターンな文章の書き方。たとえばこういうの:
She found the cookies in the jar.
と書けばいいところ、
In the jar, she found the cookies.

一ページに一回はこのタイプの文章があった。最初は流していたが、それが400ページ近く続くと本を壁に投げつけたくなる。

頑張って最後まで読んだが、なにも感動するようなことはなかった。結末も簡単に想像できた展開だったし、重要そうなことをちりばめておいて後片付けしない感じが特に後味を悪くした。適当に麻薬、10代妊娠、恋愛(と、その他人気のある社会問題色々)をごちゃ混ぜにして倫理的なことをまったく話に出さなくて、どう頑張っても感動できないやい!

どうしてこれが純文学なんだ?!

そう、大学がお金出しているからだ。それだけなんだ。


*実際には投げてません

そうそう、面白いことがもうひとつ。ヤギはこの「純文学」の仕組みは比較的最近まで知らなかった。教えてくれたのは、この最悪な本を書いた作者だった。

皮肉な話だ。

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