東野圭吾の「さいえんす?」を読みました。「あの頃僕らはアホでした」でもそうだったが、途中、一、二チャプターほど意味が分からずちょっと頑張って読まなきゃいけないところもあった。「アホでした」では、ウルトラマンとかのことを熱く語られてもちょっと困ったし、「さいえんす?」もオリンピックの具体的な話とかも根性で読みました。
でも、やっぱり読んでいて安心します。読んでいてマジで吹いたりしてます。色々な意見を書いていたりすると、「そうだよそうだよ」とか「なるほど」と思うこともたくさんあります。
それにしても、「さいえんす?」を読み終わってちょっとほっとしていることがあります。
それは手汗。
ヤギは手汗が結構出ます。
「さいえんす?」はわりと薄い本で、ちょっと古くて、ヤギの手汗で台無しにしてしまうんじゃないかと心配しながら読みました。無事傷つけずに読むことができて、嬉しいです。手袋も試してみたが、確かに手汗の問題は解決するがページがめくりにくく、逆に破いてしまったりシワにしてしまう危険性が出てくる。
とりあえずは手をよく拭きながら読むのが一番だという結論にたどりつきました。
いったいどんだけの汗なんだ、と思うかも知らないが、 うーん、出るんです。どちらかというと「手汗出るな」と思えば思うほど出てしまって、いちばん出てほしくないときほど大量発生するような気もする。
それはさておき、ヤギが初めて日本語の小説を読んだのは確か高校3、4年(日本の高校2、3年)の頃だったと思う。読んだのは東野圭吾の「どちらかが彼女を殺した」。初めて読む小説としては難しすぎたんじゃないかと思う。そもそも内容が難しいし、読み慣れない言語は読むのが遅いし要求される集中力が半端ない。それまでは、東野圭吾の短編をぽつりぽつりと読んでいた。「超たぬき理論」とかも、短編なのに長編を読んでいるかのような意気込みで読んでました。
でも最近は結構普通に日本語(東野圭吾限定だが)が読めるようになった。
なぜ一人の作家限定か?
そもそもヤギは「本の虫」なタイプではなく、むしろ「本読み=学校の宿題」という概念にとらわれていた。学校の国語の授業では次から次と本を読んで、論文書いて、読んで、書いての繰り返しだった。 だけど、ヨコみたいに身近に本が大好きな人種がいたために、会話に出てくるちょっとした話で「うーん、この話もっと知りたい」と思うようになった。「知りたい」と思った話が全部、東野圭吾の小説だった。
ヤギはずるいから映画化・ドラマ化されたものをなるべく見ているが、映像化されていないのでやっぱりどうしても知りたい話はたくさんあった。第一位が「どちらか」と「私が彼を殺した」。そこから「放課後」、「仮面山荘殺人事件」、「同級生」、と次々読むようになった。
映像化されたものを見ちゃったらもういいや、というわけでは決してない。たとえば、「レイクサイド」。映画を見たときは「こんなはずじゃない」と思い、すぐに原作を読んだ。そして感動すべき原作の「レイクサイド殺人事件」を読んだあと、「ちゃれんじ?」でその小説が書かれたいきさつを知り、ちょっとがっかりした。
これからも、頑張ってもっと本を読みます☆
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