Friday, June 7, 2013

ヤギさん英語その10:無理した英語

たまに、無理して英語を日本語の文章に入れるものを見たり聞いたりする。さっき、「チョイスする」というのを記事で見かけた。

Choice(チョイス) は名詞。動詞はchoose(チューズ)。動詞としてchoiceを使いたければ、to make a choiceになる。でも、それは「選ぶ」というよりも、決断、というニュアンス。

たとえば:You have to make a choice now. We're going to be late.
というと、「今すぐ決めて。遅刻しちゃう」
みたいな文章になる。

とにかく、ヤギが読んだ記事では、無理して「チョイスする」なんて書かないで、「選ぶ」と書けばいいのに、と思ってしまう。無理して英語を変に使うと、使っているうちに慣れてしまって「変」が「普通」になってしまい 、いざという時に間違えてしまいそう。

ある程度の和製英語は仕方がないとは思う。アイスクリームと言うのが長ったらしいと思ってしまったら、ただの「氷」という意味になってしまうが「アイス」と省略したくなるのも分かる。逆に長くする和製英語もある。「キャッチ」でなく「キャッチボール」など。でも、それは「キャッチ」だけだと何をキャッチしているのか分からないからボールを足した、と考えれば理解できる。

中には「コンセント」などどこから来たか若干不明な和製英語(もしかしたら元は英語じゃない?)もある。Consentは同意。どこをどうすれば電気関係の物になるか分からないが、もう日本語として使ってしまっている。アウトレットに変えろ、と言ってもコンセントが日本語の環境では定着している今となったら「別にいいんじゃない?」と思っても当然じゃないかと思う。

でも、「チョイスする」など遠回りしてまでも普通にある日本語の単語を使わないで、わざわざ英語を間違った使い方するのはヤギとしたら微妙です。

え?なになに?ヤギだって「スルー」とか連発するではないか?

いやいやいやいやいや。「スルー」はもはや日本語化した単語です。「スルー」とぴったりあった日本語の言葉は知りません。都合がいいんですよ。スルー。うん。スルーはいいの。

え?言い訳だって?





うん。まぁね☆


 *追加
「コンセント」はconsent から来たのではなく、concentric(コンセントリック)から省略されたと小耳に挟んだ。詳しくはコンセントの歴史に関わるとか。
面白いね☆

Thursday, June 6, 2013

ヤギさん英語、その9: 人を正しながら間違える人々 美しいけどI don't care

昨日、ニコニコニュースを眺めていたら、「美しい人のためのウェブサイト」というような内容の見出しを見た。記事のタイトルの下に最初の数ラインがちょこっと表示されている。そこに、「Beauriful People」と書かれていたのが目に入って、クリックしてしまいました。

「Beautiful people」と書きたかったであろうところが4回あった。その4回中3回Beaurifulになっていた。最後の一回だけ正しかった。

いやぁ、RとTは確かに隣同士だが、あんなに短い記事で3回も間違えるか?

まさか、と思って元となった英語の記事を見てみた。万が一にも「Beauriful」が正しかったりするのか?と考えチェックしてみた。そしたらもちろんBeaurifulなんて一言もなく、Beautifulだった。

ヤギだってタイポはあるが、雑学とはいえニュースの記事として出すんならビューティフルのタイポくらい見つけて欲しかった。スペルチェックで簡単にひっかかるしなぁ。だってさ、日本語の部分は「美じい」みたいにタイポはないんだから、どうして外国語になったとたん、チェックが甘いというか、読み直ししてないようになるんだろう。

美しい人たちは置いとくとして、もうちょっとページをスクロールしたらこんな記事があった。
「どちらでも構いません」と言う時 " I don't care" と言ってしまいそうだが、それは「そんなん、知ったこっちゃねえよ」という意味になってしいまうかも。
のような内容だった。

まぁ、記事にも書いてあったが、I don't careは場合によっては「知ったこっちゃねえ」ほど強い言い方ではないが、基本的に「どうでもいい」と若干なげやり感はある。

そして、It doesn't matter to meのほうが無難だと記事に書いてあるが、実はこれもI don't care よりちょっとましなくらいで、ヤギだったら絶対にすすめない。言葉通り、it doesn't matter to meというと、どう転がっても私には関係ないというニュアンス。これでも気持ちが離れている印象を与える。

だから、伝えたいのは何かと考えよう。伝えたいのは、どっちになっても私はいいよ、ということだ。だったら、(選択肢が二つなら)either is fine、(選択肢が二つ以上なら)any of those would be fine、any of those would workと、ポジティブな方向に文章をもっていくといい感じです。具体的な言葉は状況によるが、「~ではない」より「~である」の言い方のほうが伝わりやすいし悪い印象を与えにくいとヤギは思う。

長々と書いてしまったが、このI don't careの記事でそもそも何が言いたかったか。それは文字化けだ。

I don't careがI don't care

It doesn't matterがIt doesn't matter

日本語サイトではよく見る文字化けだし、たいしたことはないが、「あなたの英語が間違っている」と書いてある記事で自分がやばい文字化けしているという矛盾というかなんというか、ちょっとぐふふでした。しかも、Beauriful peopleを連発したすぐ下の記事だったと。

まぁ同一人物が二つの記事を書いたわけではないだろうが、むこうもプロなんでしょうから、もう少し外国語に対して気をつけてほしいヤギでした。


Wednesday, June 5, 2013

欲しい物と必要な物

欲しいけどいらない、という物は誰にでもある。それで思い出すのは、八年生(日本の中学二年生)の時の社会の先生。ヤギが通っていた学校の八年の社会はアメリカ史パート2(パート1はその前の年)。その授業で、なぜかneedとwantの違いの話が出た。

Needは本当に必要な物。食べ物、最低限の洋服、住む場所、などとなる。まぁ、当たり前のことだ。だけど、英語の日常会話的にどうしても「とても欲しい」と言いたい時に「必要だ」と言ってしまうことがある。

たとえば:
This is such a gorgeous bag. I need to get it.
 (なんて素敵なかばん。買わなくちゃ。)
と、明らかにその日たまたま見つけたかわいいかばんが人間が生きていくうえで必要なわけがないが、「ちょー欲しー」って思ったら、needと言ってしまうんです。

昨日、ヤギは買い物に行った。明らかにいらない物だが、「こいつらの魅力に敵わない、買っちゃえ」となりそうだったがヤギは踏ん張って買わなかった。



かわゆいのう。


Tuesday, June 4, 2013

しゃっくりの必殺技:アメリカOR日本?

夕べはちょうど寝ようとベッドに入った瞬間すざましいしゃっくりに襲われた。「あの技」を使って止めようと思い、飲み物を取りに行った。だが結局はしゃっくりが凶暴すぎてその技も使えず、我慢して寝ることにした。

その技とは、コップからさかさまに水を飲むという技だ。コップを普通に手に取り、自分に近いほうのふちでなく遠いほうのふちに口をつけて、前かがみになって飲む。下手すると鼻に入るが、慣れれば大丈夫。

一回、何人かと一緒にいる時にやばいしゃっくりが出たことがある。そして、みんなの前でこの技を披露することになった。そしたら、そのうちの一人が「日本人だからその技使うんだな」的なことを言った。彼は日本人の血が少しは入っていたが、基本的にアメリカ人だった。

「いや、日本人限定だとは聞いたことないが」とヤギは答えた。

彼はどっかの日本人にそのしゃっくりの技を聞いたらしい。ヤギは昔の先生に教わった。レッスンの直前にしゃっくりがでてしまい、この対処法を試させられた。そして止まった。先生は100%白人アメリカ人であって、ウィスコンシンの叔母からこの技を教わったらしい。

ふうん。じゃあ結局ユニバーサルだったと言う事か?

でもまぁ、ヤギ的にはしゃっくりが止まればなんでもいいや☆
(でも夕べはダメだったが…)

Monday, June 3, 2013

アメリカの純文学

東野圭吾の「さいえんす?」の最後に、古本屋で本を買ったり図書館で読んだりしても、出版会社に利益はなく、その結果作家たちにお金が入らず、いずれは新しい本が出なくなる、という話があった。

うん、確かにそれはそうだ。本のジャンル関係なく、売り上げの儲けで本インダストリーは成り立っている。



アメリカで純文学と ポピュラー文学(?)の違いといえば、もちろん内容的なこともある。たとえば、サイエンス・フィクション、ロマンス、ミステリーは全部ポピュラーのジャンルとなる。純文学はそのようなポピュラー要素はなく、文学的に深い何かがないと「純文学」ではない。

まぁ、漠然と考えれば何が純文学で何がポピュラーかは簡単に分かる。ハリーポッターとグレートギャツビー、どっちがどっちだ、と言ったら分かりやすい。

だけど最近はもっと根本的でさらに客観的な見分け方がある。ポピュラーフィクションは本の売り上げのみを頼りに儲けている。じゃあ純文学はどうやって儲けているかって?

「純文学」を書くのは大学の教授などなのだ(?)。たとえば、教授が小説を書くことになると、大学から資金をもらって、本を書く。本が一冊も売れなくてもベストセラーになってもあまり関係ない。

だから、現代では教授が大学からもらったお金で本を書いている限り、小説に宇宙人とか出てきちゃっても「純文学」 のジャンルに入るわけだ。

そして、今からヤギが「ライ麦畑で捕まえて」並みの文学的価値のある小説を書いて出版しても、ヤギが教授でもなく、大学から資金ももらっていなければ「ポピュラーフィクション」になってしまう。

へんな話だよなぁ。

ヤギは英語の「ポピュラーフィクション」はあまり読んだことがない。ハリーポッターは小学生の時に頑張って一冊目を読んだが、あまり魅力を感じず二作目以降は読んでいない。子供の時に読んだ本といえば、大草原の小さな家シリーズだ。このシリーズは大好きだったが、そもそも「フィクション」じゃないからカウントしないとして、よく考えてみると「ハリーポッター」以外ポピュラーフィクションは読んでない。

最近、とある「純文学」と名乗る小説を読んだ。あるきっかけがあって読むことになったこの本は、数年前に書かれたものだった。ハリーポッター以外では過去20年、30年以内に書かれた本はそもそも読んでいないことに気がついた。最近の純文学はどんなものなんだろうと思いながら、その本を読み始めた。

そしてがっかりした。

いやぁ、本当に苦痛だった。「ラノベ」は読んだことないが、「ラノベ」はこれくらい読みやすいんだろうなと思わせるくらいの読みやすさだった。内容も軽かった。厳密にいうと、小説の中で起きる出来事そのものはとても重いが、それに対するキャラクターたちのリアクションが軽すぎた。親友が死んでも高校生の女の子が妊娠しても、たいした反応がなかった。みんな次々と非現実的な行動をとるし、だんだん登場人物たちの運命がどうなろうと、ヤギはどうでもよくなってきた。

一番「ぷつん」ときたのが、ワンパターンな文章の書き方。たとえばこういうの:
She found the cookies in the jar.
と書けばいいところ、
In the jar, she found the cookies.

一ページに一回はこのタイプの文章があった。最初は流していたが、それが400ページ近く続くと本を壁に投げつけたくなる。

頑張って最後まで読んだが、なにも感動するようなことはなかった。結末も簡単に想像できた展開だったし、重要そうなことをちりばめておいて後片付けしない感じが特に後味を悪くした。適当に麻薬、10代妊娠、恋愛(と、その他人気のある社会問題色々)をごちゃ混ぜにして倫理的なことをまったく話に出さなくて、どう頑張っても感動できないやい!

どうしてこれが純文学なんだ?!

そう、大学がお金出しているからだ。それだけなんだ。


*実際には投げてません

そうそう、面白いことがもうひとつ。ヤギはこの「純文学」の仕組みは比較的最近まで知らなかった。教えてくれたのは、この最悪な本を書いた作者だった。

皮肉な話だ。

Sunday, June 2, 2013

ヤギさん読書

東野圭吾の「さいえんす?」を読みました。「あの頃僕らはアホでした」でもそうだったが、途中、一、二チャプターほど意味が分からずちょっと頑張って読まなきゃいけないところもあった。「アホでした」では、ウルトラマンとかのことを熱く語られてもちょっと困ったし、「さいえんす?」もオリンピックの具体的な話とかも根性で読みました。

でも、やっぱり読んでいて安心します。読んでいてマジで吹いたりしてます。色々な意見を書いていたりすると、「そうだよそうだよ」とか「なるほど」と思うこともたくさんあります。

それにしても、「さいえんす?」を読み終わってちょっとほっとしていることがあります。

それは手汗。

ヤギは手汗が結構出ます。

「さいえんす?」はわりと薄い本で、ちょっと古くて、ヤギの手汗で台無しにしてしまうんじゃないかと心配しながら読みました。無事傷つけずに読むことができて、嬉しいです。手袋も試してみたが、確かに手汗の問題は解決するがページがめくりにくく、逆に破いてしまったりシワにしてしまう危険性が出てくる。

とりあえずは手をよく拭きながら読むのが一番だという結論にたどりつきました。

いったいどんだけの汗なんだ、と思うかも知らないが、 うーん、出るんです。どちらかというと「手汗出るな」と思えば思うほど出てしまって、いちばん出てほしくないときほど大量発生するような気もする。

それはさておき、ヤギが初めて日本語の小説を読んだのは確か高校3、4年(日本の高校2、3年)の頃だったと思う。読んだのは東野圭吾の「どちらかが彼女を殺した」。初めて読む小説としては難しすぎたんじゃないかと思う。そもそも内容が難しいし、読み慣れない言語は読むのが遅いし要求される集中力が半端ない。それまでは、東野圭吾の短編をぽつりぽつりと読んでいた。「超たぬき理論」とかも、短編なのに長編を読んでいるかのような意気込みで読んでました。

でも最近は結構普通に日本語(東野圭吾限定だが)が読めるようになった。

なぜ一人の作家限定か?

そもそもヤギは「本の虫」なタイプではなく、むしろ「本読み=学校の宿題」という概念にとらわれていた。学校の国語の授業では次から次と本を読んで、論文書いて、読んで、書いての繰り返しだった。 だけど、ヨコみたいに身近に本が大好きな人種がいたために、会話に出てくるちょっとした話で「うーん、この話もっと知りたい」と思うようになった。「知りたい」と思った話が全部、東野圭吾の小説だった。

ヤギはずるいから映画化・ドラマ化されたものをなるべく見ているが、映像化されていないのでやっぱりどうしても知りたい話はたくさんあった。第一位が「どちらか」と「私が彼を殺した」。そこから「放課後」、「仮面山荘殺人事件」、「同級生」、と次々読むようになった。

映像化されたものを見ちゃったらもういいや、というわけでは決してない。たとえば、「レイクサイド」。映画を見たときは「こんなはずじゃない」と思い、すぐに原作を読んだ。そして感動すべき原作の「レイクサイド殺人事件」を読んだあと、「ちゃれんじ?」でその小説が書かれたいきさつを知り、ちょっとがっかりした。

これからも、頑張ってもっと本を読みます☆

Saturday, June 1, 2013

さくらんぼの顔

色々の果物の旬になってきてます☆
おいしいものをたくさん食べるのを楽しみにしているヤギです☆

ヤギの一番好きなフルーツはやっぱりチェリーです。このあいだ買ったチェリーをガツガツぽつりぽつり食べていて、ふとお皿の中を見たら:



なんと、顔になってた!
(いやいや、本当にこうだったんす。わざととかじゃない。)

そしておやつにもフルーツタルトがおいしいです☆


なになに?ただの食べ物自慢?
いえいえいえいえいえ。

ヤギはただ...

...


うん。自慢してるだけかも☆ おいしかったでしゅ。